こんばんは、智道です。
広島カープ25年ぶりのリーグ優勝
おめでとうございます!
出雲に一番近いプロ野球の本拠地広島。
ちょっとうれしいニュースです(^^)
(近いと言っても、かな~り離れておりますが。)
さて、今回は亀嵩方面に向かい。
湯野神社にお詣りしてきました。
亀嵩には、玉作の神が宿るとされる
霊峰 玉峰山から湧き出る亀嵩温泉がありますが、
その亀嵩温泉の守護神として創建されたのが湯野神社です。
お湯の神社、社名そのままですね(^^)
横田の中心地JR横田駅から、
車で20分ほど走ると湯野神社に到着しました。
途中、道路わきにコミカルな看板を見つけました。
交通安全推進の看板なのですが、
亀嵩にはうさぎがいないとは。
町ぐるみのオヤジギャグに、ひとりでウケていました(笑)
湯野神社に到着です。
鳥居の向かって左側には、
松本清張の「砂の器」の記念碑が建てられていました。
ここ亀嵩は、松本清張の「砂の器」の舞台です。
そしてもう一つ目を引くのは鳥居右後ろの巨大なケヤキの樹です。
高さは20mで、樹齢は推定450年と言われています。
鳥居の前で「鳥居の祓い」という祝詞を挙げて一礼。
石段を昇ると、参道の両側に立ち並ぶモミの樹が日差しを遮り、
少しだけ真夏の猛暑を忘れさせてくれました。
参道をテクテク歩ききって拝殿が見えてきました。
拝殿でご挨拶の後は、
ある方に教えていただいた祝詞を挙げました。
僕があちこちの神社にお詣りするのは、
この祝詞を挙げるのが目的のひとつなのです。
神社の由来が鳥居脇の石碑に書かれてありましたので、
転記させていただきました。
<湯野神社由緒沿革>
湯野神社はいつ頃創立されたか明らかではないが、千数百年前につくられた本の「出雲国風土記」や、菅原道真公等が編集した「三代実録」にその名が見え非常に古い歴史のある神社であることがわかる。
亀嵩温泉の医薬の神として大己貴命(オオナムジミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)他三柱の神を主祭神として祀っている。
境内末社の玉作神社は「出雲風土記」にのる神社で大昔、玉峰山から産出した水晶で玉を造っていた玉造部の祈願社であったが、長い変遷を経て明治十二年に湯野神社に移転した。
湯野神社の古文書、棟札、幟、鳥居に残っている神社名は、温沼神(ユヌノカミ)・大森大明神・大森社・亀嵩大社・亀嵩神社中湯野村社となっており、時代によって改められ、二十四斛(コク)四斗二升の社領を戴いていた。
徳川時代までの神主は、正神主・権神主・下職で、その他神社の寺の常連寺があったその常連寺焼失後、谷奥の青龍寺の住職と共に祭祀にあたった。
「三代実録」に平安時代、清和天皇の貞観十年に従五位下、同十三年に従五位上の高位を授けられたとあり、 その頃の隆盛をを窺い知ることができる。徳川時代の遷宮の棟札に、湯野神社を大氏と称して一名の総本願を出し亀嵩の春田神社、星神社、久比須神社、鹿島神社からそれぞれ一名の村本願を出し、共に遷宮の神事の費用を分担して奉納したとある。そして、当神社を亀嵩大社と称していたことから、亀嵩の総氏神であったと思われる。
明治四年に郷社制度が制定されるや、直ちに郷社に列せられ、明治四十一年に亀嵩地内の四社を合祀し昭和六十年には島根県神社庁特別神社の指定を受けた。
当神社には、世襲の巫職があって、徳川時代の「雲陽誌」によると、早乙女神楽や御幸神事を奉納していたとある。この神事は、徳川時代の末に中断していたが昭和六十年に復活した。
また、文久三年に、十二代の横綱となった陣幕久五郎が雲伯出世相撲場を開設して以来、例祭の日、出雲や伯耆の国の力士を集めて雲伯出世相撲を盛大に開催した。
湯野神社の主祭神は、
大己貴命・少彦名命・爾々藝命・事代主命・三保津比賣命です。
大己貴命とは大国主命のことです。
大国主命にはたくさんの御名前があるのはなぜでしょう?
ハンドルネーム的に捉えればいいのかな?
どなたか教えてください。
事代主命と三保津比賣命の母子の御名前も見えますね。
この二柱の神は、美保神社の主祭神です。
久しぶりに美保神社にもお詣りしたくなったなぁ。
それでは、おやすみなさい。
すべての存在が幸福でありますように!